水の綺麗な場所は空気も美しく感じる。とても清らかで、この場所を浄化しているかのように境内を流れる。心も洗われる。夕方なのに深呼吸をしたくなりました。

大きな鳥居から真っすぐに伸びた参道。その距離がまた、神聖な場所へと導いてくれ、特別を肌に感じる。

ここは、京都市にある下鴨神社。正しくは、賀茂別雷神社。

全ての造りが美しく、雅やか。ものすごく多くの方が参拝されていて、人の流れに流されながら歩く。

二ノ鳥居を通り抜け、細殿と呼ばれる建物の前には、円錐に盛られた砂の山が二つ並ぶ。清めの砂の起源となったものらしく、とても大きな力を感じる方もあるのだとか。触りたいけれど、縄で結界が作られていて、近づくことは出来ない。

力を下さい。

欲張りな自分にはどんな力が良いだろう。神様はきっと悩まれているに違いない。

欲張りな人は、底を知らない。

過去を忘れ、それらを得る前の自分など、気づくこともしない。新たに生まれる自分の欲求を満たそうとする。それが時に誰かを苦しめていたり、誰かを傷つけていることも知らずに。

けれどそんなことをしていたら、いつかは自分に、もしかすると自分より大切なものに返される。

昔、何かの本で読んだことがある。一瞬でも誰かを恨む気持ちを持つと、そのエネルギーは自分が瞬時に思う気持ちを遥かに超えた力となって届いてしまうのだと。怖い話だなと思いながら読んだけれど、その意味はなんとなく理解できる気がする。

自分しか見えていない人は、言葉巧みなことが多い。行動で示すことより、言葉で人を動かそうとする。その言葉には重みが無く、自分で責任を取ることも無く、どんなに素晴らしい言葉を連ねていても、誰の心にも響かせる力が無い。その言葉では人は動かない。

人を動かすことが出来る人、それは自らが行動する力で示される。自ら動ける人には、必然的に人が動いていく。

そんな人を知っている。

多くの人と接する機会が多い中で、そんな人はただ一人しか知らない。

自分にもそんな行動力を手に入れたい。そんな思いで円錐に手を合わせる。得られるか得られないかは神様が決めるのではない。自分自身のこれからだ。がんばろう。

少し空が滲んできて、一日の終わりが近づいてきていた。

今年のお正月休みの最終日のこと。