理不尽

このところ、自分の周辺でも、国の政に関わる人の話でも、スポーツでも、あまりにも理不尽なことが多く、日本人はここまで品位を欠いているのだなととても残念に思うことが多い。

故意でなかったら何をしてもよいなど、あり得ない。

ただ、自分でも、結果的に他人に理不尽なことを行ってしまうことはある。それが分かった時、何より先に謝罪にに赴き、誠心誠意自分の気持ちを伝える必要があると思う。それが今の日本人には出来ないらしい。

人を指導する立場にある人間が、謝罪することを知らない。品位を持った行動が出来ないのなら、その立場に就くべきではない。もし、自分が誤った行動をしたなら、それをしっかり教えてくれる人が常に近くにいなければならないと思う。また、それらの言葉を、しっかり聞くことの出来る人でなければ。忠告すらしてもらえないことがとても悲しいことだと、いつになれば気づくのだろう。

そんなある日、神社の拝殿の入り口で地面に額を着け、ずっと礼拝するご年配の女性に出会った。

奈良県 大神神社。

三輪山をご神体とする日本最古の神社の一つと言われている。

女性は一度も顔を上げず、自分たちが訪れてから帰路に着くまでずっと同じ姿勢で礼拝されていた。深い思いがあるのかもしれない。

大神神社は本殿を持たない神社で、昔からの祀り方を現代まで引き継いでいるのだそう。

すぐ裏には三輪山。この山に鎮座される神の麓に拝殿はあり、大きな力を感じる方もあるらしい。自分はまだまだ未熟で、その力を感じることは出来なかったものの、もし、自分が誤った道を進もうとしていたら、その誤りを正し、導いてもらうようお願いする。

行動が伴わなければ何の意味もないことをしっかり覚えていられるように。

 

心にともし灯を

昔々、そのまた昔、宇宙から地球を守るとやってきた「尊天」。

宇宙からのエネルギーを受ける山。鞍馬寺。

全ての願いを叶えてくれると言われている。お願いしたいことは湯水のごとくあるのだけれど、そんなこと考える余裕すらなかったこの日。

仁王門のところまで歩くのでさえ、かなりの傾斜がある階段。一抹の不安。本殿まで行けるだろうか。

途中はケーブルカーを利用し、片道200円で楽を買う。本当は、歩いて由岐神社を参拝したかったけれど、足腰に不安のあるお供を連れてだったので難しい。宇宙のエネルギーを分けていただきたいことが一番の目的であったので、今日はその目的を果たすことに集中させてもらうことに。

ケーブルカーを降りるとすぐに見える多宝塔。お天気が良かったので麗しさが映える。その脇を通る緩やかで長い登坂をゆっくりと歩く。それほど傾斜も強くなく、当初の不安もどこかへ飛んで行った感じがする。森の中を歩くので、いろいろな鳥に遭遇したり、木漏れ日の美しさに心が癒される。

宇宙からのエネルギーを、この森も感じているのかな。

自分にも受け取れないかと両手を開いて仰いでみるけれど、修行が足りないようで、全くエネルギーは受け取れなかった。自分には早すぎると言われているのかもしれない。

緩やかな登り坂を進むと、急激に厳しい階段が待ち受ける。大丈夫かな。

不安が一気に戻ってきて、それでもここまで来たのだからと、休憩しながら登って行く。

金剛床の中央に立ち空を仰ぐ女性がいて、しばらくその所作を眺めながら、そうすれば宇宙からのエネルギーを感じるのかと思いながらも、自分はそこを通過した。

今、自分がここで授かりたいものって何だろうと考えた時、湯水のごとく湧いてくる。けれど、そんな湯水のごとく溢れるものをここで願うことは、自分が愚かな人間であることを自覚させられ、自己嫌悪の世界に追いやられてしまうかもしれないと思ったら、怖くて通過することしか出来なかった。

本殿で唯一、元気で過ごせることへの感謝と、この元気が続くことをお願いした。

結局、自分にはまだまだ宇宙の力を授かるに至らなかったのだけれど、帰り道、多くの方の優しい心を受け取った。足腰に不安のあるお供の為に、道を開け、椅子を譲って下さった。心から感謝をした日。

ありがとう。

言葉にすることで伝えたけれど、音にすることで自分たちが思う気持ちと異なって伝わってしまいそうで、心の中で何度も繰り返し感謝を伝えた。どうか宇宙の力が存在するのなら、せめて感謝の気持ちを優しい心のともし灯を施してくださった方々に届けて下さい。

ここへ来られる方の心には、心のともし灯がほんのり灯っている。ほの温かい心の灯り。

自分もそんな心のともし灯を灯すことが出来る人でありたい。

これから先、心からお願いしたいと思うことが見つかった時、もう一度ここに立つ勇気を手に来たいと思う。

 

コラボラボ工房始めました

平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

この度、弊社は2018年4月25日、コラボラボ工房をスタートする運びとなりました。

まだまだ未熟な部分もあり、テスト運行に近い中からのスタートとなりましたが、企画、イベント、物作りのお手伝いをさせていただく部署として発足させました。

一歩ずつでも、お役に立てる知識と技術を身に着けるよう、日々努力を惜しまずがんばります。今後とも変わらずご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

 

[コラボラボ工房]

〒668-0013   兵庫県豊岡市中陰376-11

TEL(0796)34-6887  FAX(0796)29-2811

古銭

わが社の姫リンゴの花が満開。

今年もほのかに控えめに、優しい香りを漂わせ、秋の実りが待ち遠しい。

 

昔、五円がお札だった頃、そのお札に印刷されていた神社。

鳥取市にある宇部神社。

お金にご縁のある神社なのだそう。もちろん自分は五円札は使ったことはないけれど、亡くなった祖母の里は、祖母の父で15代目と言う旧家出身であった為、押し入れの中にはいつも古銭がたくさん置いてあり、小さい頃から使えるわけでもない古銭を眺めるのが好きで、遊びに行く度見せてほしいとお願いし、それらを眺めて楽しんでいました。

お金と言う意味での楽しみとは違い、その使えない古銭を眺めながら昔の時代を想像することが楽しかったのだけれど。

そのお札に描かれた神社。

この日は何か祭事が行われていたようで、多くの方が参拝されていた日。

学生の頃、それほどお金に執着していなかった自分は、財布の中に数百円しか入っていなくても遠出をする人間だったのに、年齢を重ねる毎にそれが出来なくなってしまいました。もちろん、今でもそれほど多くのお金を持ち歩くことはないけれど、さすがに数百円は難しい。いつからそんな自分になってしまったのだろう。とても残念な気持ちになる。学生の頃の自分に戻りたい。

祖母は古銭をとても大切にしていて、押し入れに置いていた小さな引き出し箪笥の中に隠すように保管していました。もちろん、その時代に五円札など使えず、ただ保管しているだけだったのだけれど。今思うと、その古銭には祖母の思い出が詰まっていたのかもしれない。見せることはしてくれたけれど、その古銭をあげるとは言わなかった祖母。今はもうその旧家は存在しない。その旧家を思い出すための、一つの思い出の品だったのかもしれない。

そんなことを思い出しながら、参拝をする。

正面からはとても急な厳しい階段。

この日は横の細い車道から神社のすぐ側にある駐車場まで車で移動させてもらいました。次は、この階段使いたい。お金にご縁を繋げるには、その険しさを乗り越えなければ。

努力しなければ、何も手に入らないと言うことなのかもしれない。

ほのぼの

柔らかな太陽の光が穏やかに地面を包んでいた4月上旬。

岡山県の和気神社。地元の方に愛されていることが良く分かる神社。薄桃色の小さな花弁が、心地よい空気と共に一斉に開花し、地元の方が多く花見に足を運ばれていたこの日。桜の香りが一面に広がり、時間の動きがとても緩やかに感じられる。日向ぼっこをしているかのような錯覚をしていて、きつく結ばれた心の紐をするりと緩めてもらったような感覚に包まれる。

暖かい。

霞橋を渡ると狛犬ではなく狛猪。勇ましくこの場所を守っているのかもしれない。

この左手を少し歩くと見事な藤棚が見えてくる。この日はまだ咲いてはいなかったけれど、開花時にはとても長く美しい藤の花のトンネルを通り抜けることが出来るようだった。4月下旬から開花する予定らしい。次は藤の花が咲く季節に訪れよう。

階段を上り参拝をする。

とても清掃の行き届いた綺麗な神社。境内には様々な植物が植えられていて、毎日散歩がてらお参りするのにとても心地よい印象。

いつまでも、暖かく、ほのぼのとした時間を感じることの出来る神社でありますように。その暖かい、穏やかな時間を少しだけ分けてもらえたことに感謝しながら、ここを後にした。

 

 

 

 

 

朝桜

駐車場の桜が満開になる少し前の早朝。

『朝桜』

本当は露を受けて咲く桜を意味するらしいけれど、この日は快晴。露一つなく、美しい姿を見せてくれました。

春の香りがほのかに漂い、また一歩、歩き始める感じが清く心地よかった朝。

その数日前。大阪にある勝尾寺。

とてもお金をかけて整備されている感じが伺えるお寺。けれど、歴史は古く、神亀4年と記されている。あまりに近代化された境内に、少し寂しい感じもしましたが、周囲には古くから在ると思われる大木が見られ、これもまた、現代に維持していく為の知恵なのだからと、思いながら参拝。

あちこちにこのダルマさんが点在していて、何か意味があるのかなと思っていると、このダルマさん、おみくじが入っているものらしい。『勝運ダルマ』と呼ばれるダルマが有名らしく、見渡す限りダルマさんがいっぱい。

平安時代から、勝ち運を祈願されるお寺。

もちろん、勝ち運を祈願する。

なかなか自分に勝つことは難しい。

指に触れそうなところにあるものが欲しくて、一生懸命に手を伸ばす。けれど、するりとそれはかわして逃げる。触れそうなのに触れられない。そんな悔しい思いを何度もする。けれど、人は悔しい思いを何度も繰り返すことで、いろいろな知恵を身に着け、立ち上がることが出来る。ダルマさんは転んでも転んでも立ち上がる。

勝ち運。

身につくように、お願いする。

身に着けたい、地道でも、がんばれる力。

しだれ桜がかなりの本数境内に植樹されていて、この日はまだ蕾ではあったものの、梅の花が見ごろだった日。きっと今頃、しだれ桜が咲き乱れているかもしれない。

良く晴れた、3月の終わりの日。

 

福の神

真夏のような暑さの後、ここ数日は気温も低く雨も降ったりで、せっかく庭のさくらんぼの花が咲き始めたのに、残念。我が家にとってこのさくらんぼが春を知らせてくれる風物。実は全て鳥の餌になってしまって、未だ口に出来たことはありませんが、ソメイヨシノより少し早く開花する桜。今年も一斉に咲き始めました。

昨年のお正月に頂いていたお札をお返ししなくてはとずっと気になっていて、未だ閉じこもりが継続中のため、どうしようかと思っていたけれど、思い切って午後の時間を使い、行ってきました。

西宮神社。

お正月も、十日えびすも、ものすごい人なので、ゆっくり神社を見学することも出来ず、人の流れに流されてお参りとは名ばかりの形式ばかり。この日は大きなイベントも無かったようではあったものの、やはり多くの参拝者の方が出入りされていました。それでもゆっくり歩ける程度だったので、境内にある茶屋で休憩したり、時間をかけて参拝させて頂きました。茶屋ではご年配の賄い人が、美味しいお茶と、焼き立てみたらし団子などご用意して下さる。有料ではあるけれど、ゆったりした時間が流れ、心のトゲトゲを癒してくれる。ほうじ茶が懐かしく感じる。

福の神の笑顔。

この場所には、緩やかな時間が刻まれ、日常から抜け出せたような心地よい空間が存在していた。

あくせくした時間ばかりでは、人は壊れてしまう。時には日常とは違う時の流れを纏う人の中に身を委ね、現実から離れた時間を心に感じることはとても大切なことだなと思う。自分の心を開放する。飛び立った心がやがて癒されて自分の中に戻って来たとき、また新たな一歩を踏み出せるのではないだろうか。

お札返せて良かった。

また来年も、無事に訪れられますように。

 

花桃

昨年は、思ってもいなかった災いに見舞われ、ほとんど年始から4月後半まで外出らしい外出をすることが出来なかった自分に、遠くへ住む友人から励ましの写真が送られてきた。

この写真は1年前のもの。

南信州のとある場所に咲く花桃と呼ばれる花。桜ではありません。桜と違って、とても鮮やかな色彩を持つ花のようで、かなりの本数が植えられている場所があるのだそう。南信州には何度か訪れたことがあり、豊かな自然が美しい地域。どうして行きたくなるようなものを送ってくるのかと思ったけれど、息が詰まりそうになっている自分を少しでも楽しませようとの心遣い。感謝しなければなと思う。

この花桃、4月中旬から咲き始めるらしい。

いつか一緒に見に行こう。

3月も中旬に入り、もう桜の開花予報の季節となっていることに、閉じこもり中の自分は驚いているけれど、確かに気温も暖かくなっていて、春は近づいている。

先日、ある会社の社長とお話させてもらう機会があって、その会社の社名の由来などを聞いた。『芽吹く』と言う意味と、ご自分のお父様の名前から決められたそうだ。お父様のことが大好きなのだとお話されていた。

誰でも、大切に思うものや人、時間がある。忘れてはならない気持ちや思いを何かで残すことが出来るなら、それは凄いことではないかと思う。時間は残酷で、記憶はどんどん風化してしまう。覚えていると思っていることも、時間と共に間違った記憶と入れ替わってしまうことがある。どうして正確に、覚えていることが出来ないのだろうと思うけれど、大切にしている記憶の一部が、薄れていてはっきりと思い出せなくなっている。

ずっと覚えていたいのに。

そんな時、何かに刻んでおくことが出来た大切なものは、そのままずっと形として残っていく。だから思った。

素敵なことだなと。

大切なものを忘れてしまわないよう、自分も何かに刻んで歩いていこうと思う。

智恵

ぽかぽかの春はまだ遠いのかな。

福井県では大雪で大渋滞が発生したり、お亡くなりになる方もあり、本当に大変な悲しい冬となりました。ニュースになるほどではなかったものの、自分も大渋滞に遭遇し、数時間車で過ごしました。雪国なのにこの渋滞はどうして発生してしまったのか。それでもその日の内に帰宅出来たことは幸いでした。

そんな厳しい冬、開催中のオリンピックは感動がいっぱい。人としての在り方を勉強させられる場面が多く見られ、自分もがんばらなければと感じながら応援。スポーツって本当に素晴らしい。

新年からこっち、ものすごく自分の力の無さを感じることが多く、開発の仕事も思うように進まない日が続き、悩む時間の方が多い毎日。そんな時こそ、自然の空気を体に取り込みたいと切望しているのに、時間との闘いでなかなか自由な時間を取ることが出来ない。

深呼吸したい。

疲れた体に、心の負担が多くのしかかり、世の中に蔓延るものがあまりにも夥しく、息苦しさを感じてしまう。もうこの世に存命されていないけれど、ある方はいつも盗聴器発見器を持ち歩かれていた。誰に盗聴されているか分からないからと、屈託のない笑顔で話されていたのを思い出す。行動と笑顔の差が心地悪かった。それくらい人を信じることが出来ないことが、本当に寂しいことだなと感じながら話を伺ったことを覚えている。人を信じられないとはどんな気持ちだったのだろう。けれど、気付くと自分もそんな気持ちを少し抱いていて、このままでは残念な道を歩くことになると、首を横に振った。

そんなことを思いたくない。

そこは智恵で越えることが出来ると思う。もっと自分に知恵を。一日が36時間位の感覚で、ここ数日は脳を働かせながら、ものすごいスピードでこの一か月滞った仕事を熟している自分がいる。

もっと早く、スタートを切れないかなと、自分が嫌になるけれど。

智恵を借りよう。

上田市には数回足を運んだことがあり、上田城の敷地内にある眞田神社は、必ずお参りする神社。何度か訪れていて、いつも快晴で迎えられる。

ここは智恵の神様が祀られている。

また、智恵を授かりに行こう。

ぽかぽかの春はまだ遠いのかな。

清らかな水に癒されて

水の綺麗な場所は空気も美しく感じる。とても清らかで、この場所を浄化しているかのように境内を流れる。心も洗われる。夕方なのに深呼吸をしたくなりました。

大きな鳥居から真っすぐに伸びた参道。その距離がまた、神聖な場所へと導いてくれ、特別を肌に感じる。

ここは、京都市にある下鴨神社。正しくは、賀茂別雷神社。

全ての造りが美しく、雅やか。ものすごく多くの方が参拝されていて、人の流れに流されながら歩く。

二ノ鳥居を通り抜け、細殿と呼ばれる建物の前には、円錐に盛られた砂の山が二つ並ぶ。清めの砂の起源となったものらしく、とても大きな力を感じる方もあるのだとか。触りたいけれど、縄で結界が作られていて、近づくことは出来ない。

力を下さい。

欲張りな自分にはどんな力が良いだろう。神様はきっと悩まれているに違いない。

欲張りな人は、底を知らない。

過去を忘れ、それらを得る前の自分など、気づくこともしない。新たに生まれる自分の欲求を満たそうとする。それが時に誰かを苦しめていたり、誰かを傷つけていることも知らずに。

けれどそんなことをしていたら、いつかは自分に、もしかすると自分より大切なものに返される。

昔、何かの本で読んだことがある。一瞬でも誰かを恨む気持ちを持つと、そのエネルギーは自分が瞬時に思う気持ちを遥かに超えた力となって届いてしまうのだと。怖い話だなと思いながら読んだけれど、その意味はなんとなく理解できる気がする。

自分しか見えていない人は、言葉巧みなことが多い。行動で示すことより、言葉で人を動かそうとする。その言葉には重みが無く、自分で責任を取ることも無く、どんなに素晴らしい言葉を連ねていても、誰の心にも響かせる力が無い。その言葉では人は動かない。

人を動かすことが出来る人、それは自らが行動する力で示される。自ら動ける人には、必然的に人が動いていく。

そんな人を知っている。

多くの人と接する機会が多い中で、そんな人はただ一人しか知らない。

自分にもそんな行動力を手に入れたい。そんな思いで円錐に手を合わせる。得られるか得られないかは神様が決めるのではない。自分自身のこれからだ。がんばろう。

少し空が滲んできて、一日の終わりが近づいてきていた。

今年のお正月休みの最終日のこと。