言葉

金閣寺

水面に浮かぶ黄金色、異国の人々に覆い尽くされ、時の流れに何を思うだろう。

もうすぐ色とりどりの木々に覆われ美しい衣を纏った金閣寺を目に出来るけれど、美しい季節の到来時には、この敷地に入ることすら難しくなると思い、まだ濃い緑の季節に訪れました。

異国の人々の話す言葉が途切れることなく聞こえ、日本の人まで異国の言葉で話す。個人タクシーの運転手さんも異国の言葉。自分にも話せると楽しいのにと、自分の無能さにがっかりしながら、人の流れに押されて歩く。

異国の人々の言葉の音を耳にしながら、言葉って難しいなと考えてしまう。

心の中を言葉で表すことって難しい。なかなか伝わらない。自国の言葉でさえ、思っている通りに伝わることがどれくらいあるだろうと考えてみる。確かに微妙に違って伝わっていたり、全く違う意味に変わっていたり。

伝わらないって何てもどかしいことなんだろう。

でも、どんな言葉でも、人の気持ちがそこにあるか無いかは何となく伝わってしまうと思うので、どんな時でも、真剣に取り組むことに努力しなくてはと自分に言い聞かせ、異国の人々と共に歩いていました。

共に歩く。

それは大切です。

もう一度

私の祖母が眠るお寺。

大阪の天王寺にある一心寺。

一心寺

数年前、大好きだった祖母が他界した時、家族でいろいろ話し合って、このお寺でお骨をお地蔵様にしてもらうことを選択。お墓がある訳ではないけれど、このお寺には祖母の遺骨があります。ここに来ると祖母と話が出来る気がする。

毎年お参りに来たいと思っていたのに、なかなか来ることが出来ず、今回2年ぶりとなりました。

大阪の高速道路が苦手で、この日は一般道を車を走らせ移動。意外と近く感じました。これならまた来れるかも。

祖母は私たちが来ることを待っているのかもしれないと思うんです。それは、どんなに天候が荒れていても、お寺の近くになると決まって太陽が覗く。不思議なくらい毎回。この日もそうでした。

祖母の人生を誰かに話す機会があったとしたら、それはそれは大河ドラマでも作れてしまうのではないかと思えるくらい波乱万丈。

だからいつも思う。

もし来世があるのなら、この人を幸せにしてあげて下さいと。

おばあちゃん、また来るね。

 

 

名古屋城

名古屋城

私事ではあるけれど、この日はとっても大切な用事があり名古屋入りしました。

もっと晴れた空なら、金のシャチホコが映えたのかもしれない。もし、今の時代に徳川家康が歩いていたら、きっと普通のおじさんで気づくこともできないのかもしれないなぁなど、なんとなく馬鹿げたことを考えながら歩く。

戦国の時代には生きたくないけれど、戦に明け暮れた時代に生きていたら、どんなに毎日、毎時、毎分、毎秒の出来事が貴重なもので、一生が瞬く間に終わったのかと考えると、今の自分は幸せなのかもしれないなぁと思うのでした。

熱田神宮

熱田神宮。

多くの方が参拝されていて、自分もその中に加わる。建物の作りがとても印象的で、伊勢神宮に良く似ている。調べてみると、神明造と呼ばれる建築様式だそうです。とても歴史の長い様式で、弥生時代の高床式倉庫が原型ではと考えられているようです。そんな古くからの建築様式が、この時代にも継がれている。仕事柄、最新のものばかり好んでいるように思われるけれど、豊岡市にある、ある和菓子のお店で、こんな話をしたことがあります。

『本当はこんな昔ながらの商売の仕方はと思うけれど、今風って言っても私には難しいんです』とお店のおかみさん。

『こういう味のあるお店は、その風情がとても良い。今のままが良いと思います。全てを機械化することだけが良い未来につながるとは思っていませんよ』と私。

人の心を残したいと思う。

そんな仕事を続けたい。

子供の頃に帰りたい

子供の頃、お寺の境内横にあるトトロの森のような小さな空間が好きで、よく遊んでいました。苔の生えている木々が夏の日差しを遮って心地よい涼しさだった場所。大きな椎の木があって、椎の実がちいさな手にいっぱいになるほど落ちていて、宝物を拾ったように思っていました。

そうそう、椎の実って食べられるって知っていますか?フライパンで炒ると香ばしく、お菓子とは違う、自然の美味しさなんです。

苔の生えた木に穴があって、その穴の中には不思議の空間があると信じていたあの頃。子供ってすごいなって思うんですが、絵本や本の世界と現実の世界が空想と言う人間の持つ能力で融合され、無限の世界が家の近くで広がっていました。

そんな子供の頃の記憶からなのか、今でもお寺や神社、小さな森のような場所、空気の流れを感じさせない場所が好きで、そんな場所を時間があれば行きたくなります。

高山寺

京都の高山寺。

本当は紅葉の季節に参拝すると良いのかもしれませんが、山の中にひっそり本堂が見えます。その趣は、本来の人があるべき姿を教えられているのかなと思わせる静かなものでした。山の木々が空一面覆い尽くしているような、少し愁いを帯びたものでしたが、きっと紅葉の季節になれば、また違った一面を観ることが出来ると思います。

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仏足石。

もっと近くで写真を撮ればよかったのですが、実はこの山、枯葉にそっくりな形の蛙がいます。もしかしてとっても貴重な蛙なのかな?でも、蛙、苦手なんです。近づけない。

けれど、小さな命が育まれるいる森は、大切にしていかなければと思いました。

蛙語を取得出来たら楽しいのに。ケロケロ(笑)

 

国生み神生み 遠い時代を垣間見たい

IZANAGI

幻想的な巫女舞と雅楽が、目の前に現れ、時代を飛び越えるかのような不思議な空気感が境内いっぱい漂っていた日。

どこかのテレビ局の方なのかな、撮影中でしたので、静かに、出来るだけ静かに参拝させて頂きました。

淡路島の中央辺りに位置する伊弉諾神宮。

同じ兵庫県に住みながら、ほとんど淡路島を訪れたことはありませんでしたが、先日の出張帰りにもう一度通りたいと思い、午前中仕事を終了させ、ナビをセット。思ったより早く到着することが出来、日帰り可能なんだと今更ながら知り、少しうれしくなりました。よく考えてみると、中学校のクラブの県大会に洲本の学校とか来られていて、今更ながら同じ兵庫県なのに、どうして遠いと思い込んでいたんだろ。

伊弉諾大神の神話、国生み神生み。記されている古事記や日本書紀の時代ですら現代からは遠く、その遠い時代の歴史書には更にその先の遠くが記されている。知らないことがあるって楽しい。

帰路、淡路島の端っこからは、島を囲む向こうの町や山がきれいに眺望することが出来ました。

淡水色の空、深い藍色の海。地球そのものが発色しているかのようで、地球の呼吸が聞こえてきそう。

こんな綺麗な景色を見ていると、自分がちっぽけに感じる。

なんてちっぽけなんだろうね。

ひとりの日本人として

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先日、天皇陛下の『お気持ち』を拝聴し、本当に個人的ではあるのですが、静かな余生を差し上げたいなぁと、心が少しチクっとしました。

私たちには日々、多くの制約もあるけれど、多くの自由も手にしていて、人間らしく生きることが出来ている中で、それらを守る為にほんの少しの自由も手にすることが出来ない方々もあるなんて。私の幸せは、この方々に守られている。

もし、今の時代でなかったのなら、そんなことを考えることすら出来なかったのかもしれない。

日本人として、天皇制が存在する日本の国がとても誇りであるし、良いことも悪いことも含め、歴史が存在するからこそ、私たちは今を生きることが出来ている。泣きながら、笑いながら、それでもここに生きていることに、深く感謝しなければならないと感じました。

ひとりの日本人として、個人的に感じた気持ちです。

ここからは『お気持ち』とはあまり関係ないのですが、御紋つながりで。

先日訪れた福井県にある氣比神宮。門に菊の御紋があり、きれいに清掃が行き届いた、澄み切った空気の格式高い神宮でした。

失礼な所作でお参りすることは出来ないなと感じ(勝手に感じただけだけど)、少し緊張気味にお参りしました。

その入り口にある『長命水』。一口頂いてきました。無病息災、長寿延命のご利益があるとされています。湧水で、この猛暑の中でもとっても冷たく透き通ったお水です。

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このお水、天皇陛下にも届けてあげたいなぁ。

潮風と明石海峡大橋と懐かしい思い出

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先日、仕事で四国へ行ってきました。晴れて良かったです。

行きは瀬戸大橋を渡り、途中のサービスエリアで讃岐うどんを頂き、目的地高松へ。高松は通り過ぎたことはあるけれど、直接来たことがなかったので新鮮でした。

四国へ来たのは数年ぶり。

ずっと昔の話 忘れてはいけないはずの記憶が少しだけ蘇りました。社会人になって2回目の夏、学生時代の友人のお墓参りに来たことがあるんです。学生時代の彼女は明るく、周りにいつも友人たちがいて、楽しそうで、柔らかい印象の女性でした。何でなのか分からないけれど、彼女の姿を思い出すのはいつもノースリーブの生成りのワンピースを着た姿。日に焼けた真っ黒の顔で、高校野球を一生懸命に応援していた時のとびきりの笑顔。お母さんはお元気でいらしゃるだろうか。彼女の居る町は、高松からはまだまだ遠い。けれど、四国に来ると、彼女の柔らかい笑顔と空中にぽっかり浮かんでるような声が、数年ぶりに見え、聞こえたような気がしました。

帰りの明石海峡大橋。

神戸が見える。

やっぱり帰る場所があるっていい。

あなたもそう思っているよね。

山の上のお寺

園教寺

お寺への参拝が修行となりました。

兵庫県姫路市にある書写山。そこはロープウェイで登り、少し歩くとお寺の参拝料を納める関所(そんなイメージだったんです)があり、そこで参拝料と一緒にバス利用料を支払えば良かったらしいのですが、歩きました。

最初は、1km程なので時間をかければ大丈夫くらいの感覚だったのですが、歩き始めてしばらくすると急な斜面の続く山登り。少しだけ歩けば普通の平面の道になるだろうと楽観的に考えていたところ、続く続く。ようやく下りだと思ったとたん、今度はかなり急な下り。せっかく登ってきたのにまた下るのかと思っていたら、見えてきました。

圓教寺。そのお寺は階段をかなり上った上の方に建っていて、見上げなくてはいけない。下から見た境内は、空の色、森の色の中に美しく映え、疲れたけど参拝出来て良かったと思わせてくれます。

いつも通り、普通であることと道中の安全に感謝をし、記念にお守りとお札を頂いて帰ろうと順番を待っていたら、隣で一人の女性が赤い手帳のようなものをリュックから出され、その手帳にものすごい達筆で筆を走らせるお寺の方。思わず見とれてしまいました。後で調べたら『御朱印帳』と呼ばれるもので、今、流行っているのだとか。なるほど、一瞬で魅了され、自分も集めてみたいなと思ってしまいました。

もう少し『御朱印帳』について調べてみて、自分に収集する時間や気持ちの持続が出来るかを考えてからにしよう。でも、思いもしなかった世界を知ることが出来る機会が得られたことは幸せだったな。

書写山

帰り道、まだ上手に鳴けない鶯が鳴いていました。口笛で泣き方を教えてあげながら歩いて下る。鶯もどんどん上手に鳴けるように。

自然の中の小さなひととき。

増資のお知らせ

平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。

この度、弊社は2016年7月1日付にて増資を行い、

資本金を1,000万円としましたので、ここにお知らせいたします。

これを機に、一層の飛躍と事業拡大を図り、

信頼と満足の頂ける企業へと成長出来るよう、

社員一同、努力いたす所存でございます。

今後も、倍旧のご愛顧を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 

緑の生きる山

daisenji

29日の午前中は快晴で、以前から行きたかった大山寺に行こうと車に乗り出発。途中から空模様が悪くなり、車を止める場所が分からずうろうろしていたら、午後2時になってしまって、駐車場らしき場所を見つけ、長い坂道を上り、大山寺の入り口に到着。

天然石の階段がとても風情のあるお寺です。

けれど、この天然石が結構曲者で、躓きそうになりながら結構長い階段を上り、息が・・・運動不足がこんなところで・・・

それはどうでもよいけれど、早速お参り。いつも通り、普通であることをお願いし、道中の無事故を感謝し、一応写真を撮らせて頂いて、手を合わせた途端雨が降り出しました。

怒られてる?

大山寺は、大山の麓になるのでしょうか、途中木々の茂ったきれいな(2車線はありますが)、空が見えないくらいの緑のトンネルを走ります。このトンネル(実際は道路ですけどね)がとてもきれいで、まるで別の世界に来たのかと思うくらい癒される空間、初夏の新緑が雨で少し滲んで更に深く生きている感を醸し出していました。

美しい。

大山の登山人は数人いらしたけれど、あまり多くの人は見られなかった日。雨が降っていたからかも。また、いい季節に。